感情の浮き沈みや振れ幅が大きいほど人生が色彩豊かな証拠
ぬいぐるみパパのツイート解説、本日はこちら
日々感情の起伏が激しいと心穏やかな毎日を切望するかも知れませんが、僕は「それは自分がボケる頃に叶うからまだいいや」と考えてます
感情の振れ幅が大きいほど色彩豊かな景色の中で生き生きと暮らしていけます
共感できる相手や表現する場次第で、どんな感情も人生を楽しむスパイスに変わりますよ
ということですが、僕は普段から「心が穏やかな状態でいると生きるのが楽ですよ」って話してます。
それって別に心が穏やかじゃない状態を否定している訳ではないですけど、僕自身も含め、「○○の方がいいよね」って言い続けてると、やっぱり自分でも「そうじゃない状態は良くないんじゃないか」とつい思い込みがち。
人間って、つい無意識に比較してしまう習慣が思考パターンとしてあるので、コインの裏表みたいに考えてしまう。
そうじゃない状態=裏は良くないんじゃないか、と自動的に判断しがちになってしまうことがよくあるんですよね。
僕自身も、自分の考え方が偏らないように、なるべくニュートラルな状態でいつもいられるように、常に見直すようにしていて
こういうのを心や思考のチューニング合わせと呼んでるんですが
自分が心穏やか派に偏りすぎてるかな?って思ったら、そうじゃない方にもちょっと重心を寄せてみたり。
定期的に考え方や心の持ちようをリバランスするように意識してるんです。
自分の発言や考え方、感じ方が、なんとなく偏ってないかな?陰と陽、プラスとマイナスのどちらか片方に偏りすぎてるんじゃないかな?って感じたら、ちょっと見直してみる。
やっぱり“真ん中の状態”が一番判断しやすい。
いつもお話ししてますが、感情をクリアにすると世の中がニュートラルに、ありのままの本来の形が見えてくる。
自分の解釈や思い込みのフィルターがかからない、透明な状態で見れるから、何が一番ベストな判断なのかっていう最適解が出しやすい。
心理面で自分の偏りを解いていき、思考面でも自分の解釈を外していくと、ベストの状態でパフォーマンスを発揮しやすい、というのが僕がいつもお伝えしていることなんです。
なので、自分の内面をチューニング合わせ、リバランスするっていうのは非常に大切なんですね。
そういう意味でも、今回のメッセージは「いつも心は穏やかがいいと言ってるけど、感情的に浮き沈み、山あり谷ありでも決して悪くないよね」っていうメッセージでもあるんですね。
これは、僕自身が若い頃に気づいたことでもあって。
これまでお世話になった成功者や経営者の方々をずっと観察してきて、そりゃそこまで辿り着いたら当然心穏やかに暮らせるでしょうね、という印象があったんです。
すでに豊かで、もう成功してお金もあるから不安もなくて、素晴らしい仲間に囲まれてる。
そうじゃなきゃ成功できないもんね?
地位もあって世間からも認められてて、何一つ不満がない、それならそりゃあ満足してるでしょうよ、と。
で、僕が何をミスっても、若い奴がどんな失礼な事をしでかしても、いつもニコニコ穏やかに見守ってくれる。
そんな人生の先輩を見てて、すごく憧れてた時期があって
早くあんな風に、器の大きな人格者になりたいなぁ
悟りを開いたような、あんな極地に早く僕も行きたいなぁ
みたいに考えてた時期もあったんですけど。
ある時、ふと思ったんですよ。
なんかこれ、すごく変な表現で、不快に感じる方がいたら申し訳ないんですが…
僕自身が感じたのは、「その心の穏やかさって、僕が年老いておじいちゃんになって、ボケてきちゃった頃に自然に叶うじゃないかな」って思ったんですね。
僕という生命が、身体的に機能が低下してきた頃に、思考が鈍くなり始めて、日々穏やかにニコニコできてたら、それでゴールなんじゃないか、と。
僕は以前、高齢者向けのケア施設で働いてたことがあるんですが、そんな雰囲気のおじいちゃんおばあちゃんが大好きだったんです。
子供と接するのも大好きだし、おじいちゃんおばあちゃんのケアしたりお世話やサポートするようなお仕事も大好きで
のんびりとした時間と空間の中で、穏やかに日向ぼっこしながら、おじいちゃんおばあちゃんがホケーっとしてるのを見ると、すごく心が癒されるんですよね。
で、僕にとっては、それってすごく素敵な命の使い方だと思っていて。
僕自身がそういう風にボケちゃって、ちょっと痴呆が進んできた頃に、のんびり過ごしてる自分を想像して、「あ、そんな穏やかな最後がいずれ来るなら、それまでは山あり谷ありでもいっかな?」みたいな。
「今そんな無理に背伸びして、心の器を大きくしよう、人格者になろう、なんて頑張らなくても
いずれ、自動的に、人間は穏やか(機能が低下した)な終わりに近づいていくんだったら
今は、この若い時にしか見れない景色を満喫した方が絶対いいじゃん!」と感じたんです。
感情も激しく浮き沈みして、思考もぐるぐる忙しく動いてたら、楽しいことばかりじゃなく大変なことも多いかもしれない。
悩みの渦中、ど真ん中にいたら、しんどいことも色々あるかもしれないけど、それって今しかできない、青春真っ只中みたいなものなんだから。
期間限定なんだったら、今だけのこのイベントをたくさん味わったらいいじゃん!って開き直れた時があったんですね。
それで、自分の浮き沈み、感情の起伏が激しいところとかを、丸ごと受け入れることができた。
当時はすごく怒りっぽかったし、今でもそうだけどむちゃくちゃ泣き虫で、心の中が常に感情でぐちゃぐちゃだった。
感動で泣いてしまうこともあれば、悲しくても泣いてしまうから、四六時中泣いたり怒ったりしてる、っていう
感情が激しすぎて、親からも情けないと叱られたり心配されることも多かったんですけど
その全部をひっくるめて、「今しかできないこと」だから、それもそれで全然いいじゃん
と、自分で自分を認めてあげれたことがあったんです。
感情の浮き沈みがあったり、振れ幅が大きいからこそ、世の中が色彩豊かに、ビビッドに見える、というのもすごく実感したし
いずれホケーとなっちゃったら、もうそれしか見えないかもしれない。
僕は一度、心が壊れてしまってた時期があるんだけど、心の機能が低下してしまったり心が病気になってしまうと、まるで世界が白黒のモノトーンのように味気なくなるんですよ。
何もかもが単調で、何を食べても美味しくない、何を見ても面白くない、みたいな状態だった頃は、本当に景色がつまんなかった。
感情の針が振れてるってことは、それだけ色彩豊かに、様々な景色が見れるってことじゃないですか。
楽しい景色も見えるし、悲しい景色も見れる。
ということは、どんな状態でも、「その感情ならではの景色」として鑑賞したらいい。
映画では感情の起伏が表現されるからこそ、ストーリーとして面白い訳で。
自分の人生のストーリーで考えたら、もう終わりに近い頃の穏やかで静かなシーンを想像したら、なんだか今からそれに似たシーンをやるのはタイミング的にもったいないというか。
だったら若いうちから人格者を目指したりするよりも、今は今で、右往左往しながら、ジタバタしながら、感情に振り回されながら
それでも何とか自分を安定させたい、とか
それでも自分は夢を叶えたいんだ、とか
悩んで悩んで、それでも何とか生きていく、とか
っていう時期を、何十年後かに振り返って、「あの頃は俺も若かったなぁ」としみじみ感じる
そういう、なんか思い出の映画みたいな人生を送れたら、それはそれでアリだよなぁ、と。
逆に、そういうのが一切ない方がもったいないじゃん、どうせいつか人生終わっちゃうんだから
と考えるようになって、すごく自分を許すことができた、生きるのが楽になった、という経験があるんです。
どんな感情もあっていい、全部の自分が今だけの自分。
足りない自分も、弱い自分も、全部の自分が、大切な「今しかできない思い出ストーリー、今しか見れない景色」だと思うと、すごく楽になりません?
誰のためでもない、未来の自分のためなんですよ。
今しかできないジタバタは、今やっとかないともったいない。
どうせボケるんだから。
ボケたら悟りに近い状態、ほぼ変わらない状態になるんだから。
人格者とほぼ変わらない精神状態に、痴呆になったら自分もなれるんだから、無理に先を急がなくていいや
って僕は考えるようになって、楽になれたんです。
すごく失礼な表現に聞こえてしまうかもしれませんが、僕はそう解釈したことで自分を許せたので、珍しい例として聞いていただけたらいいかなと思って紹介してみました。
ということで、ぬいぐるみパパでした。
※こちらの記事は全て音声メッセージの書き起こしです
▽オーディオ解説や最新情報はこちら、Twitterのフォローよろしくお願いします!
twitter.com