SNSで自由に繋がれる時代だから嫌な人に合わせる必要はない
ぬいぐるみパパのツイート解説、本日はこちら
毎日ここで何十人もの方々とお話してると「本当にコミュ障の人が多いんだなぁ」と感じます
で、ここまで多いなら“こっち”を主流にしたらいいじゃんと思うのです
大多数のコミュ障の人達の気持ちが分からない、お前達こそ現代のコミュ障やろ!と
誰も間違ってない筈です
共に理解し合う事が全てです
と言う、どっちかを立てたらどっちかにトゲが立つような表現を、この時はあえてしちゃってるのかもしれませんが
僕としては「誰も何も悪くない」っていう考え方は昔から変わらないんですね。
コミュ障って表現自体、本当はあまり好きではないんですけど、分かりやすいかなと思ってこんな投稿を一年以上前にさせていただいた事がありました。
僕は以前セールスマンをやっていた頃、徹底的にコミュニケーションスキルを学んでた時期があったんですが
そんな僕自身も、もともとはコミュ障の部類に入ってたと自分では思ってるんですね。
ただ、最近ではコミュニケーション障害って言葉があまりにも一般化しすぎちゃってて、色んなケース、多種多様な人が当てはまってしまい過ぎてる感はありますよね。
人の気持ちが分からない人もコミュ障、そもそも相手を理解しようという発想がない人もコミュ障
ただ緊張しやすく人前で頭が真っ白になっちゃう人もコミュ障
あとは、コミュニケーションと言っても言葉のやりとりじゃなくて、そもそも人と関われない、社会適応できないタイプとかもコミュ障
みんなひっくるめてコミュ障って呼び方をしちゃってて、何でもかんでも区別なく使ってるよなぁ、って風潮をすごく感じるんですね。
で、僕自身はどんなタイプのコミュ障かというと、口でしゃべる事は全然できるけど、とにかく元々は大人が怖くて
大人と話すのが嫌で嫌で、ストレスを抱えてたんです。
だから、最初は幼児教育の先生になったんです。
子供が大好きで、子供とならスラスラお話できる。
なので、子供達の心を開き、子供達に楽しいって感じてもらおう、と言葉の伝え方、使い方を一生懸命研究したんですね。
色んな事を吸収しやすく学んでもらおう、学習効率をあげよう、と思ってコミュニケーションスキルを身につけたので、当時からおしゃべりは得意な方だったとは思うんですけど。
そういう意味で言ったら、「大人とうまく関わることができない」という部類のコミュ障だったと思うんですね。
今は逆に、「自分の好きな人としか関わらない」と完全に開き直っていて、まぁ贅沢なことですが、それでまかり通るライフスタイルを築いてしまったので
僕は普段から、本当に自分が好きな人としか話さないんですよ。
嫌いな人とも喋ろうと思えば喋れるけど、まず喋る気にならない。
嫌な人間関係、嫌なお付き合いは一切しない、と決めていて
お仕事だろうと何だろうと、接待みたいなお付き合いのコミュニケーション、お付き合いの人間関係は一切しない
それで収入が減ろうが昇進できなくなろうが、絶対にやらない
ストレスがかかるような人間関係を作らない、という生き方をもう10年以上やってるんですね。
それができないんだったら、いざとなったらまた独立起業して、自分で仕事を立ち上げればいいだけ、っていう割り切り方をしてるので
おかげさまで、現在は会社に勤めてる立場ですけど、自分の中では無理して自分を殺してまで社交的なろうとは全く思ってない。
だから、会社では「仕事はできるけど、大人しい奴だなぁ」ぐらいに思ってもらってるんじゃないかな?
(今の職場では)接待にも忘年会にも、飲み会や集まりに参加したことは一切ないし、残業もしないし、上司にお世辞も言わない。
普段はほとんど無口、でも必要な時には必要なことを発言するスタイル
その上で僕の能力を認めてもらって、きちんとお給料をいただけてるから、僕はそれで幸せ。
で、普段プライベートでは、SNSを通して若いコ達を中心に、僕が今まで経験してきたことをお伝えするという活動の方が、大人達と関わるより楽しいので、こんな活動を続けてるってタイプなんですね。
そんなライフスタイルを続けながら、自分自身の考え、軸をぶらさずに世の中を観察していると
これだけ色んなタイプ、多種多様な個性の人々が出てきたら、もはや社交的とかコミュニケーションが得意というのが優れてるという価値観自体が古くなってきてるのでは?と感じるんですよ。
人が怖かったり、人に興味がなかったり、それ以上に承認欲求が強すぎてついつい自分の話をしてしまうタイプの人だったり
本当に様々な異なる理由や状況で、歯車が噛み合わなくて、人と打ち解けられなくて、リアル社会ではコミュニケーションがうまくいかないからコミュ障だって言われるし、自分もそう自認してる人がどんどん増えてきてる。
ここまで増えてきたっていう事は、ただ「人付き合いが苦手」とか、そんな一面だけでは解決できない
ストレス社会と言われるような今の現状とか
インターネットが普及して利便性が高まって、そこまでリアル社会で人付き合いを頑張る必要ないとか
ネットの方が人間関係が楽だから、そんなに細かい言葉のコミュニケーションはいらないとか
いろんな考え方、価値観、複合的な側面があって、今こうなってると思うんですよね。
僕は接客業や営業のお仕事を通じて、今でも都心でたくさんの人達、若い層も含めて色んな方々と触れ合う機会が多くて
都心部でビジネスやお仕事をしてると、いわゆるリア充という部類の方々と関わったり、成功してる人達が集まってる社交的な場を見かけたり
僕は参加しないけど、お客さんにそういう人達が多かったりするって時も、タイミングとして時々あるんですね。
で、こういう人をコミュ強(コミュニケーションが強い)とかリア充(リアルが充実してる)って呼ぶのかぁ、とか
僕が普段アドバイスさせて頂いたり、お付き合いしてるネット上の人達は、こういう人達との対比としてコミュ障と呼ばれてるんだろうなぁ
なんて考えながら、観察してるんですよ。
ようは、イケイケの人達とうまく関われる人が強い、という判断基準
そういう部類の人間関係作りが苦手だったり、そういう輪に入りたがらない人を、僕も含めてですけど、コミュ障とか社会適応できないっていう風に捉える風潮があるんだなぁって感じるんです。
だけど、僕はどちらかと言うと開き直ってるタイプなので別だとしても、そんな「常にイケイケ、アゲアゲで、リア充でいることがカッコいい、正しい」と大多数の人が捉えていた時代なんてとうに終わっていて
SNSなどでこれだけ、「そんな人達とはうまく付き合えない」って人達が増えてきてて
僕の肌感覚では、こっちの方が、ようはコミュ障と自他共に認める人の方が、最近は多いと感じるんですね。
そもそも、障害って表現自体がおかしいというか
もう煩わしい付き合いとか、自分に合わないテンションの上げ方とか、そんなのを基準にするのって意味なくない?って。
なんで無理してまでそんなことやりたいの?と。
もちろん、そういうイケイケタイプの人達を否定はしませんし、そういうグループはあって全然いい、ずっと存在してていいと思います。
だけど、そこに無理に合わせる考え方自体が時代遅れと言うか。
それだけ色んな価値観の多様化があって、時代背景もあって、の今なんだから
じゃあ、人とうまく交われない、気が合う人とだったら大丈夫だけど、気が合わない、ノリの合わない人とのコミュニケーションがうまくできないのをコミュ障って呼ぶんだったら、もうそれが主流でいいんじゃないかな、と思う訳ですよ。
ようは、何が言いたいかというと、どこにカドを立てるでもなく、どっちを否定するのでもなく、リア充タイプとして生まれてきた人は、ワイワイやってて楽しそうでいいですね、と思うけど
ただ、僕は関わりたいとは一切思わないし、そんな人間関係も疲れそうだから僕は望まない、っていう、単なる個人的な好みの問題なのでは、と。
結局は、誰が、どこで、どう楽しいって感じても、そこに優劣の差なんてないよね
みんな、それぞれが楽しければ、それでいいよねって思うんです。
こういう話をすると、やっぱり賛否両論あるかもしれないし、今自分で喋りながらも「聞く人が聞いたら、嫌な思いをする人も中にはいるのかもな…」ってどうしても心配してしまうんですけど
僕がいつもお伝えしてる、「誰も、何も、悪くない」ってメッセージの延長として
どうしても、分かりやすいから使っちゃうけど、コミュ障とかリア充とかって表現や価値観も、そのうち段々と薄れていって
好きな人とだけ関わる、好きな人とだけ繋がる、っていうのが仮想現実じゃなくてリアルな現実として、認知されていけばいいなと。
SNSが当たり前になった今のご時世、それでいいと思うし、それで十分満たされると思うし
「そんな人達がいていいよね」が全体の共通認識として、理解し合えていけたら一番素敵なんじゃないのかなと思っています。
ぬいぐるみパパでした。
※こちらの記事は全て音声メッセージの書き起こしです
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