問題を解決するより気にならない状態になった方が攻略できる
ぬいぐるみパパのツイート解説、本日はこちら
悩みや問題には
「解決する」
「気にしない」
「気にならない」
って段階があって、僕は皆さんの問題は解決できるようにお手伝いしてますが、実は自分だけ「気にならない」モードなんです
つまり僕には何も問題として写らない、障壁もトラブルも全く見えない状態
今この現状が既に完璧で満足なのです
というのは、伝わるかどうかわからないような、ややこしい表現になっちゃってるので、深堀りしていきたいと思いますが
この考え方は、東洋哲学、東洋思想から来てるって流れになるのかな。
僕は若い頃、よくこういう発想や解釈をいろんな師匠に教わったり、本で読んだりして「面白い考え方があるんだなぁ」と学んでたんですけど
仏の道、悟りに繋がるような教えの中でも、こういう表現がたまに出てきますよね。
ようは、目の前に問題があると認識した時点で、「解決しなきゃいけない」と感じるんですけど、そもそもその問題を問題として捉えなかったら、解決自体いらなくなりますよね、という発想なんです。
例えば、誰かがあなたに嫌なことを言ったとします。
それを「あの人は嫌なこと言うなぁ」って、問題として認識し、「嫌なこと」と感じた時点で、解決しようかしないか、って選択になる。
で、多くの人が「解決した方がいい」という判断をし始めますよね。
(注意するとか、縁を切るとか、再発しない策を練るという意味です)
でも、人によっては、誰かが何か嫌なことを言ったとしても、「まあ、あの人に何を言っても仕方がないから、気にしないようにしよう」と聞かないようにスルーする、ってアプローチを選ぶ人もいるんですよ。
意図的に「はいはい、知らない知らない、聞かない聞かない」みたいな。
そうすると、解決しようって努力するとか、何とかしなきゃいけない、と考えることすらしなくなる。
その出来事自体をスルーする。
「問題はここにはありません」と、自分の中でキャンセリング、リセットして、なかったことにしちゃうというスルーの仕方。
これが上手な人は、結構ストレスが多く見える環境、世の中でも、スルスルと抜けれるってパターンだったりします。
ようは、問題に対して反発する人が、一番ストレスを感じるんです。
で、目の前の問題に反発する、批判するだけで、イライラしてても何も変わらないから、解決しようとするタイプもいます。
自分から解決しようとする人は、解決できるとスッキリする。
でも、解決できない時もあるし、解決しようとすることでエネルギーを消費するという場面もある。
だったら、最初から気にしないで、常にスルーすることで心を守ったり、自分の本当にやりたいことにだけエネルギーを注ぐ、って器用な方もいます。
「はいはい、人に何を言われても全然気にしませんよ」っていう身のかわし方、というかね。
僕は若い頃、これが全然できない不器用タイプの解決派だったので、常に問題の渦中に果敢に飛び込んでいって苦労するパターンでした。
壁にぶち当たったら、「自力で解決する」っていうとこに生きがいすら感じてた人なので(笑)
で、そんな自分がちょっとずつ成長していき、全然違う価値観の人と関わるようになった時に、この「気にしない」モードの人に出会ってビックリしたんですよ。
「すごーい!世渡り上手ってこういうことを言うんだ!考え方も見てる世界も全然違うなぁ」と。
(自分が未熟な時は、そんな人を受け入れられず見下したりもしてたので)
僕にとっては、目の前の問題に対して「解決するかしないか」の二択しかなかったのに、「気にしない、スルーする」という第三の選択肢を教えてもらった気がして。
つまり、SNSで言ったら、誰かが絡んできた時に、その都度討論したり、誤解を解こうとするのが解決派だとしたら
「気にしない」っていうのは、ミュートや即ブロックしちゃったりする人なのかな、と何となく感じますね。
「人によってはそういう発想もあるんだー」って当時の僕は新しい価値観に気づけた感覚だったんです。
で、そんな「何通りか発想法がありますよね」ってのが、仏の教えとかにも確かあったと思うんですけど
実は、その上、っていうと変だけど、その先にもまだ選択肢があって
「気にならない」モード、気にならないっていう段階があるんですよ、というのを本やセミナーで教わった時に、僕はすごく感動したんです。
ようは、世の中の仕組み、現象として起きてること、時代背景や社会全体の現状を冷静に眺め
自然界のことわり、宇宙の仕組みレベルで、すごーく大きな視点から見た時に「あ、そりゃそうなるよね」となる感覚。
ある出来事を、善いと捉える人もいれば、悪いと捉える人もいて、それが人間だよね、当たり前だよね
っていうモードになると、誰が何を言っても「気にならない」って状態になる
と教わって、「面白いなー」と感動したんですね。
僕は問題解決っていうのを仕事にしてたこともあって、トラブルシューティングやクレーム処理、カウンセラーとして人の悩みを解決するお仕事をしてたこともあるので、それ自体に生きがいを感じたこともあるけど
お仕事とかじゃなくって、「自分が本当はどうなりたいか」を考えた時に、解決すべき問題がゼロになる人生って素敵だなと改めて思ったんですよ。
自分がいつも朗らかに、穏やかに、のほほーんとしていて
世界の、宇宙の、自然界の、全ての出来事をニュートラルに眺められる状態
いつも平常心で「なるほどね〜そうですよね〜イライラする人がいても仕方ないですよね〜はいはい」とニコニコしていられる自分
というのが、僕にとっては一番心穏やかで、素の自然体で、肩肘張らなくていいなぁ、と。
でも、いきなりそこに到達しちゃったら、多分つまんないだろうなぁ、とも感じたんですね。
そんな、悟るようなのって、世の中を冷めた目で見るようなイメージに映ったんでしょうね、若い頃は血気盛んだったので。
そんなのは、歳をとってからいいじゃん!
じじいになってからでいいじゃん!
ボケる直前に悟りを開けばいいじゃん!
若い頃は情熱を燃やして、ガンガンいこうぜ!みたいなノリだったんですけど
だんだんと、人を知り、心理を知り、思考を知り、感情のメカニズムや瞑想、いろんなことを勉強していくうちに
「あぁ、気にならないって、自由なんだ」と気づいたんですよ。
気にならないということは、気にしてもいいし、気にしなくてもいいけど、平常運転の時には気にならない状態。
だから、問題解決をしたくなったら、あえてしたらいいけど、普段は別に気にならないし、どっちでもいい
っていう、「自分で選べる状態」なんだな、と。
いつもお話してるように、僕にとっては世の中がゲームに見えてるんですね。
モニター越しにコントローラを握っているのが本体の僕で、世の中、現実がゲームとして展開していく
僕というメインキャラクター、勇者や戦士や魔法使いみたいなキャラクターが、普段の生活している
人と関わったり、会社に行って仕事したりしている、っていうモードに入っていて
何が起ころうと、ゲーム内のキャラクターとして目の前で問題が生じるかもしれないけど、本体の僕としては、コントローラに握ってるだけだから気にならないんですね。
どんなに罵倒されようが、どんなにプライドを傷つけられようが、何をされようが、やられてるのはゲームの中のキャラクターとしての僕なので(笑)
本当は気にならないんですけど、あえてゲームとして攻略する面白みがあるから、問題解決をするんですよ。
そこに人が関わった時、人様の相談に乗ったり仕事として依頼された時に、僕は「解決する」ってコマンドを選び、そういうゲームをして遊んでるだけであって
実際に僕が外で一人でいる時とか、自分だけで活動している時には、どう見られようとほとんど興味がない、気にならない。
「この社会、現実世界では、そのように他人を否定する人がいるんだ、なるほどねぇ」
「そんな風に自分のストレスのはけ口を探して、全然知らない人に罵声をぶつけるような人がいるんだぁ」
「まぁ、そういう時もあるよね」
「そういう心理なんだろうね」
みたいに、景色として眺めてる。
モニター越しに画面を見ている感覚。
で、遊びたい時には、あえて遊ぶ
その遊ぶっていうのが僕にとっての「問題解決」、という感覚で世界を見てますね。
僕という本体に、ダメージは一切来ない、ストレスも一切かからない。
遊びたい時に遊ぶ、その状態がとっても面白くって、もう何年も実践してるので、何かの参考になればと思って話してみました。
というわけで、ぬいぐるみパパでした。
※こちらの記事は全て音声メッセージの書き起こしです
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