無理して「許す」より丸ごと受け入れて「悪くない」と捉えよう
ぬいぐるみパパのツイート解説、本日はこちら
人を許すというのは「あなたは悪いけど」という前提があります
それも尊いのかも知れませんが僕にはなかなかできません
赦すという概念は「そもそも何も悪くない」というもの
全ては経験値であり、後に感謝の対象となり得る
それを知っていると何でも赦すことができます
実はこちらのが簡単ですよ
ちょっと今回は小難しい、なんだか仏の教えみたいな感じの話になるので、なかなか伝わらないかもしれないんですけど
なんとなく僕はもう20年以上前から、こういうことを考えてたなぁっていうのをシェアしますね。
もともと、東洋哲学などが昔から好きで、色々と興味を持って調べたりするタイプだったんです。
子供の頃からってほどじゃないけど、なんとなくそういう思想が好きで追っかけてて、結果たどり着いた考え方なんですけど。
多くの人が「許してあげる」のは尊いことだと捉え、子供にも人を許してあげるのが良いことですよ、きちんとごめんなさいを言いましょうね、っていう躾をするじゃないですか。
僕は(以前の職で)幼児教育の業界にいたこともあるんですが、子供達が何か悪いことをしちゃった時や無意識にお友達とぶつかっちゃった時とかに、大人が
「こういう時なんて言う?」「ごめんなさいでしょ、ほら言ってごらん」
「ごめんなさい」
「ほら、○○ちゃんはそういう時なんて言うの?」「いいよって言うんでしょ」
「いいよ」
みたいな、そういうお決まりフレーズとして言わせるんですよね、よくある風景なんですけど。
あれが僕はどうも違和感だらけで…
「ありがとうって言いなさい」とか「きちんとごめんなさいが言えたら偉いコだよ」とか、それって本当に正しい教育の形なのか?と。
もちろん、感謝や謝罪という概念やコンセプトが最初はわからないから小さい子に教えるって言うんだったらわかるけど
常に「このシチュエーションの時には、こう言わせる」って強制してしまうと、気持ちが嘘になりません?ってすごく思ってて。
だから僕は、そういう躾はすごく苦手で
まぁ否定はしないけど、「僕はやらないなぁ、なんか嫌だなぁ」ってすごく感じてたんですよ。
だから、自分に娘ができてからも、僕からは「ありがとうって言いなさい」とか言わないですよ。
その代わり、僕が本当に心底喜んで誰にでも感謝してる姿を見せ続けてる。
もともとの性格もあるし、(いやらしい表現かもしれないけど)以前セールスマンをやってた頃に、とにかく「人を喜ばせて相手の心を開く所からがコミュニケーションのスタートだ」って叩き込まれたので
今でも癖で、もう「発言の全ては相手の心をまず開くためにあるものだ」と思い込んでる節があるんですね、僕自身。
なので、何かを頂いた時に、極端に喜ぶんですよ。
(以前は意図的にやっていたと思うけど、今は完全に無意識です)
これはもう、素で大喜びするんです。
「うわぁー!!無茶苦茶嬉しい!!ありがとぉー!!!」って。
ただ、その喜ぶ姿を見せてりゃいいじゃん、と。
それを見て、娘が「何かをもらった時に、こういう風に喜ぶと、こんなに相手も(自分も)嬉しく感じるんだ」
「感謝を伝えると、お互いにハッピーが連鎖するんだ」って、シチュエーションから学んでくれるのが一番自然だと思っているので。
それによって、自分が言いたいと思ったら言うだろうし。
この考え方には当然、賛否両論あるのもすごくわかりますよ。
そうは言っても、子供にはちゃんとマナーと躾を教えなきゃいけないっていう考えも分かります。
分かりますけど、僕は自分の子供にはそう接してきたし、僕は「自分の気持ちに嘘をつきたくない」という生き方をしてきたので、そんな想いやメッセージも込めて自分の行動や在り方で伝えています。
もちろん、その前後で、説明が必要な時はじっくり向かい合って話す、コミュニケーションを大事にしながらですけどね。
僕にとっては、挨拶も含めたコミュニケーション、特に感謝や謝罪って、一番形式ばってちゃいけないことだと思ってて
「ありがとう」って、本音じゃないんだったら、まだ言わない方が誤解やミスコミュニケーションも生じないし。
「本当に感謝の想いを伝えたいから言う」の方が、長い人間関係、本物の人間関係を構築していくには大事なんじゃないかな、と。
常識とか決まりごとって感覚を一旦外して、ストレートに想いを表現するっていうコミュニケーションこそ大切なんじゃないかな、ってすごく思うんですよね。
これも、もちろん賛否両論あると思いますけど。
そういう風に、結構細かいところまで気にしちゃうタイプなので、今回の「許す」って言葉にも僕なりのこだわりや思想がありまして。
やっぱり、人を許すっていうのは「あなたは悪い、けど許してあげる」って発想じゃないですか。
でも、僕の思想では
そもそも誰も何も悪くない、問題はない
これもいつもあちこちでお話しするんですけど
誰かを攻撃したり否定する人っていますよね、ネット上、SNS上でもよく見かけますが。
僕からすると
そういう環境で育って、そういう風に心がこじれてしまって、それを快楽と感じてしまうっていう理由がその人にはある。
心の理由、つまり心理がそうさせてるんだから仕方ない。
私だって、あなただって、そういう環境で育ったら、あの人みたいになり得る、なってたかもしれない
だから、もうそれは環境に原因があって、何が悪いというより、そうなってしまう必然性があったから、そんな現象になっている。
つまり、何も悪くない
っていう発想を僕はまず持つんですよ。
仕方がない、と。
もちろん、だからといって何も咎めないとかじゃなくて、それが罰せられるべき事、世の中的に間違ってる事だったら、罰せられて当然だと思うけど
少なくとも、気持ちの中では、「これは単にそういう現象だ」とまず受け止める。
判断は、その後すべきなんですよ。
だから、第一の反応で、感情に飲まれて「おまえが悪い!」と言っちゃうんじゃなくて、
まずは一旦、全部受け入れて
現象として眺めて
何も悪くない、誰も悪くない
そういう時代、そういう環境、そういう現象がたまたま目の前にある
「そして、私はどう行動しよう?」っていうのを考えるようにしてる
っていうのが、僕の普段のパターンですね。
「そういう現象があるんだなぁ、この場には」とか「この時代だと、そういうのが増えてきたんだなぁ」と観測し
「なぜだろう?あ、そっか!この背景には、こういうストレスが溜まるような生活が結構広がっているのか…」とかっていうのを目の当たりにして
「なるほどな…さて、そこで私はどうしよう?」と。
つまり、世の中の問題を感情抜きで観測し、自分にできる事にだけ集中するという感覚ですね。
もちろん、自分に直接何か問題や害があるんだったら、解決するために向き合うけど
それが、自分とは全然関係ないんだったら、単なる現象、景色として観察して、得るものがあればいただくし、ないんだったら一切そこには関わらない。
(他人の不祥事や炎上案件など)
これも、昔からできてた訳じゃないので、少しずつ自分を上書きして身につけた思考の習慣です。
「感情的になって頭ごなしに(何か、誰かを)否定する」っていう選択肢を、まず一度手放してみる、ってところから始めた記憶がありますね。
で、その方が結局、怒りを我慢して「…許してやるよ」って無理に許すのよりも全然(精神的にも)楽なんだっていうのを僕は気づいたので
本当に今は、その考え方が癖になってますね。
だから、何を見ても「あ〜仕方ないよな…そういう心理なんだよね」「そういうひねくれた心理になっちゃうよね…」とだけ思って、おしまい、みたいな。
この世界には本当に色んな人がいるので、もちろん僕に対しても攻撃的に言ってくる方もいるし
本当に悪気はなく、すごく上から物申してくる人とかもいるし
嫌〜な、後味の悪〜い言葉遣いや表現をする人もいるけど
「仕方ないよなぁ…この人はそうやって生きてきたんだもん」と、ただありのままを受け止める。
僕の口癖というか、考え方の癖なんですけど
『常に、すべての人は、それがその時点での、本人のベストアンサーだと思って行動している』
と思ってるんですよ。
他にもっといいこと、他にもっと快楽を感じること、他にもっと自分が幸せを実感できる行動や言動や表現があれば、間違いなくそっちをやってるはずなんです。
他の選択肢がないから、思いつかないから、パターンを知らないから、自分の中にインストールされてないから、そういう表現をしちゃう
悪口を言っちゃう
人を責めちゃう
僕は知ってるから、僕は「人を喜ばせると相手が喜んでくれて、感謝の証としてお金が巡り巡ってくる」という経験を何度もしてるから、僕の中に人を喜ばす以外の選択肢はないんですよ。
自分が快楽を得てるから。
露骨に、脳内で快楽物質が出るって経験を積めば、すべての人は最終的には優しくなっていくと、僕は本気で思ってるから。
ちょっとずつ、そういう考え方を、もちろん万人に受け入れられるとは思いませんが、シェアしていきたいなぁなんて思って、こんな話をつらつらとしています。
ということで、ちょっと今回は小難しい話だったんですけど、ぬいぐるみパパでした。
※こちらの記事は全て音声メッセージの書き起こしです
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